Travis Scott Facebook / Erika Goldring : WireImage
OCTOBER 19 2019
Travis Scott (トラヴィス・スコット) :
Jacques Berman Webster (ジャック・ベルマン・ウェブスター)
(Travis Scott Facebook)
生まれ:
1991年4月30日 (28歳)
アメリカ / テキサス州ヒューストン / サウス・パーク
生まれ育った地元をこよなく愛し、音楽で時に「暴動」とまで称されるほどの熱狂を起こすテキサス州ヒューストン出身のラッパー、トラヴィス・スコット。第4回目となる連載「Rappers Dictionary」では、わずか28歳ながら「スーパースター」の称号を背負う彼の生い立ちから現在までを紹介していきたいと思う。
1. 生い立ち
2. 高校・大学時代 / 音楽への道へ
3.『Owl Pharaoh』/『Days Before Rodeo』
4.『Rodeo』/『Birds in the Trap Sing McKnight』
5.『ASTROWORLD』/ ヒューストンの希望
6. 現在
全米第4の都市とも言われるテキサス州ヒューストンの南部・サウスパークで1歳から6歳までを過ごしたトラヴィス。街の中心部まで車で約20分という距離にあるこのエリアは、住宅地と緑が一面に広がる、まさに「郊外」といった土地柄だ。
(Google Map : サウスパークの街並み)
そんな郊外にある祖母の家で過ごした少年時代を彼はこう語っている。
「おばあちゃんと一緒にフッドで過ごしてきた。
クレイジーな出来事をたくさん見てきたよ。
おかしな浮浪者たち、クレイジーな堕落した奴ら。
薄汚れた格好で飢えに苦しむ人たちを見てきた。
そんなだからずっと” ここから抜け出さないと “って思ってた。」— Complex
ローリング・ストーンズ紙のインタビューでは、地域のそこらでコカインの取引が行われていたと語るように、サウス・パークで過ごした5年間は物心ついたばかりの彼に、テレビや絵本の世界が全てではないという社会の現実を突きつけた。
一方で、6歳以降は3つほど先のブロック、ビヨンセが生まれ育った町ミズーリ・シティに移り住むことになる。いわゆる「ゲットー育ち」のラッパーたちのリリックを聞いて想像するような最悪の治安はそこにはなく、住民もある程度の収入があるような、おおよそ中流階級以上の住人が多かったそう。
トラヴィスの家族も例外ではなく、父は会社経営、母はAppleに勤めるなど一般的に見れば豊かな家庭だった。
しかし、2005年頃に父親がミュージシャンになるべく、仕事を辞めて以来、母が生活を支えることに。足が悪く、松葉杖を使いながら仕事をしていたという母の収入のみが生活の支えとなったウェブスター家の生活は苦しくなっていったそう。
「貧しい暮らしをしてた。母さんは足を曲げることができなくてね。俺が物心ついて以来、母さんはずっと松葉杖を使ってる。
症状を緩和するための薬をもらってたけど、そのせいで身体の他の部分を悪くしたんだ。心臓発作を起こしたこともある。若い頃自転車に乗ったまま、誤って側溝に落っこちたらしいんだ。
そんな状態でありながら、母さんは俺たち兄妹や父さんを養ってくれて、俺のやりたいようにやらせてくれた。たくましい女性さ。何があっても挫けない強さを、俺は母さんから学んだんだ。」– Rolling Stones
父はミュージシャン、祖父もジャズ奏者と音楽一家で育ったトラヴィス。
3歳の頃にはすでに父からドラム・キットを贈られ、直々に教えを受けていたそう。その後、ピアノを習い始めるも「女の子にモテないから」という理由で辞めたそうだが、ミュージシャンのすぐ近くで、幼い頃から様々な楽器に触れるなど音楽的に非常に豊かな環境で育ったことがわかる。
13歳の頃にはビートメイク・ラップをスタート、ファレル・ウィリアムス、カニエ・ウエストといった「プロデューサー / ラッパー」と二つの肩書きを持つアーティストに影響を受け、当時から楽曲の製作をしながらマイクを握っていた。若くして「スーパースター」になることができたのは、そのスタートの早さも一つの要因だったのかもしれない。
また、影響を受けたアーティストという点で、彼はクリーブランド出身のラッパー、キッド・カディに大きくインスパイアされたと語っている。
キッド・カディといえばOGスタイルとは異なるスタイリッシュなファッションや、ダークな作風が特徴的だが、確かにそのいづれもが現在のトラヴィスに影響していると言えるだろう。
高校に入学するも勉学より音楽に夢中だったトラヴィス。
ラップとプロデュースのどちらもを担当しながら、仲間たちと共に本格的に曲の製作を始める。
カニエ・ウエストの作品に『Graduation』以来、全てのアルバムに参加していることでも有名な敏腕プロデューサー、マイク・ディーンとは高校の頃から面識があったそうで。
「トラブルを起こしたりしたことはない。
ただクラスをサボってビートを作ったり、マイク・ディーンに会いに行ったりしてた。クレイジーだよな。」– Complex
と語っている。どうすればマイクのようなプロデューサーに高校生のうちから知り合えるのか全く検討がつかないが、のちにリリースすることとなる3枚のアルバム『Rodeo』『Birds in the Trap Sing McKnight』『ASTROWORLD』では、マイク・ディーンが全てのトラックでマスタリング、ほぼ全ての曲で演奏・プロデュースを担当するなど、現在のパートナー的な存在と、高校在学時に既に出会っていたことになる。
友人たちと自宅でビートを作る毎日を送っていた彼だったが、父親はそんな彼がラッパーとして生きていくことに対し、100%賛成とは言えなかったようで当時はよく揉めていたそう。
そんな音楽一色の高校時代を送った彼だったが、テキサス大学サンアントニオ校に進学してもなお、その時間をラップとビートの制作に費やしていた。
貰っていた学費の多くを機材や、飛行機代に費やし、19歳の頃には両親に黙ったまま大学をドロップアウトしてしまうことになる。音楽で成功することを夢見てニューヨークへ行っている数ヶ月の間に、このドロップアウトが両親にバレてしまい、結果この頃から両親からの金銭的な支援は一切なくなってしまうことに。
(この時期に、初めてMVをリリース)
家を追い出され、一文無しになった彼は、それでも音楽の道を諦めず友人に金を借りてLAまで飛び立った。
空港に着き携帯を確認したところ、ラッパーのT.I.から突然「スタジオに来ないか」というメールを受信。すぐにアトランタに向かうことに。
その後『Cruel Summer』を製作中だったカニエ・ウエストからラブ・コールを受けるなど、まさにキャリアの「転換点」と言えるオファーを憧れのラッパーたちから受けることに。
実際に彼の作ったビートと、そのラップはカニエに認められ” Sin City “という曲で、当時20歳という若さながらアルバム入りを成し遂げる。
彼はカニエのスタジオでの思い出をこう振り返る、
「俺は先にスタジオに入って待ってたら、彼が後から入ってきたんだ。イエローのバレンシアガを着てた。” マジかよ、本当に来てくれたんだ “って思ったよ。
彼は部屋に入って来た時電話中だった。” ファック、電話しながらかよ “って思ったけど、挨拶をして、彼が俺の名前を呼んだ。カニエが俺のことを知ってるって実感したね。
その後、彼がタコベルのタコスをくれたんだけど、中身を見たらサワークリームが入ってたんだ。俺、サワークリームが大嫌いなんだよ。でも貰ったもんだから全部食べきったよ(笑)。
タコスはマジで最悪だったけど、でもその時彼が俺の曲をかけてくれてたんだ。曲を止めたら、彼が” ドープだ、この曲イルだよ “って行ってくれたんだ。
最高だったね。口の中のサワークリームなんて関係ないくらいに。」– Complex
夢にも描いた二つの出会いは実を結び、彼はカニエ・ウエストの「G.O.O.D Music」、T.I.の「Grand Hustle」とのプロダクション契約を結ぶこととなり、急速にその名前と音楽を世間に知らしめていく。
若手ラッパーたちの登竜門的な存在である「XXLフレッシュマン 2013」に選出、カニエ・ウエスト『Yeezus』、ジェイ・Z『Magna Carta』にプロダクション側で参加。
もちろん彼の活躍はゲスト・プロデューサーとしてだけでない。
デビュー・ミックステープ『Owl Pharaoh』を2013年5月にリリース。
2チェインズ、T.I.、トロ・イ・モア、エイサップ・ファーグ、ワーレイ、ミーク・ミルなど、ミックステープながら非常に豪華な面々をゲストを迎えたことでもわかるように、彼はこの時点で既にシーンでかなりの知名度と、コネクションを持っていた。
その1年後には2枚目のミックステープ『Days Before Rodeo』をリリース。
遅めのビートに暗い雰囲気を持ち合わせた彼のサウンドは当時のシーンにとってかなり「新しく」、その作風は『Days Before Rodeo』の名前を引き継ぐ、待望のデビュー・アルバムにも同様に登場することに。
彼の地元テキサス州ヒューストンでは有名なスポーツイベントがある。
南部といえば「カウボーイ」のイメージもあるかもしれないが、歴史的な影響もあり、テキサス州ヒューストンでは毎年「Houston Livestock Show and Rodeo」という荒馬乗り / 荒牛乗りをスポーツとして、巨大なスタジアムで行う一大イベントが催される。
NYやLAなど拠点を様々な場所に移して来た彼だったが、デビュー・アルバムに地元ヒューストンの名物「Rodeo – ロデオ」の名をつけた。
そんなタイトルからも「地元愛」が垣間見えるデビューアルバムは2015年9月にドロップ。
シングル” Antidote “が3x プラチナム、300万枚を売り上げるなど、彼のデビュー・アルバムは大ヒットとなる。
“ Everything can happen at the night show
Ooh, at the night show
Anything can happen at the night show, ooh “「ナイトショーではなんだって起こるんだ。
どんなことだって起こりうるのさ。」- ” Antidote “
そのちょうど一年後の2016年9月、セカンド・アルバム『Birds in the Trap Sing McKnight』をリリース。ケンドリック・ラマーを迎えたシングル” goosebumps “でモッシュピットを起こす若者たちの熱狂はラップ・シーンに衝撃を与えた。
大学をドロップアウトしてから約6年、“ Pick Up the Phone “に参加したクエイヴォの一節” Birds in the Trap Sing Brian McKnight “から取ったアルバムはBillboard 200でNo. 1に登り詰め、全米No. 1を獲得した。両親に嘘をつきながらも絶対に諦めなかった彼の努力が結果となって表れた。
そんな大成功を収めた彼だったが、アルバムをリリースした直後、「次のアルバムの構想はすでにある」と発言。止まることなく次のステージに進むことを宣言した。
「すでに構想はある」というトラヴィスの発言から2年間が経った2018年8月、ついに3枚目のアルバム『ASTROWORLD』がリリース。
タイトルとなった「アストロワールド」は地元ヒューストンのテーマパークの名前。街の財政悪化により閉鎖されてしまった街のテーマパークを再び取り戻すことを誓ったアルバムは、生まれ育ったヒューストン、そしてサウスエリアへの愛が詰まった作品になっている。
“ STARGAZING “ではルイジアナ出身のDJ Jimiの” Bitches “をサンプリング、
“ R.I.P. SCREW “では2000年に他界したヒューストン出身のDJ Screwへの哀悼を、
” NO BYSTANDARDS “ではサウスのN.W.Aとも称されるスリー・6・マフィアの” Tear Da Club Up “を大胆にサンプリング、
” 5% TINT “ではアトランタのヒップホップ・グループGoodie Mobの” Cell Therapy “をサンプリングするなど、リリックやアルバムのテーマだけでなく、ネタ使いにもフッドへの敬意が大いに表れている。
“ Got a thousand kids outside that’s tryna come alive
’99, took AstroWorld, it had to relocate
Told the dogs I’d bring it back, it was a seal of faith “「生きようと必死になってる少年たちが何千人と来てる。
99年、アストロワールドは奪われた、どこかに移転しなきゃならなかった。
(アストロワールドは移転の末、2005年に取り壊されてしまう)
仲間たちに「取り戻す」って誓ったんだ、信念で誓った。」- ” STARGAZING “
フランク・オーシャン、ジェームス・ブレイク、テーム・インパラのケヴィン・パーカー、ザ・ウィーケンド、ギタリストのジョン・メイヤーなど名だたるゲストたちが揃ったこのアルバム。
もちろんその楽曲の素晴らしさは文句のつけようがない。” SICKO MODE “のようなビートスウィッチを繰り返す奇抜な曲から、カイリー・ジェンナーへの愛情を語る” COFFEE BEAN “までジェットコースターのような作りで私たちを本当のテーマパークのように楽しませてくれる。
一方で、この『ASTROWORLD』を制作からライブツアーまで追ったネットフリックス製作のドキュメンタリー『Look Mom I Can Fly』では、ファンの若者への影響、地元ヒューストンへの貢献が特にフォーカスして描かれている。
彼は異常な熱狂を生み出すライブに、彼はおそらく他のどのラッパーよりも力を込め、「大事にしている」。ライブツアーではどのステージにもジェットコースターを設置するなど、テーマパークをステージに再現するという彼の思いが読み取れる。
時に「暴動」とまで称されるライブを終えたファンはこう語る。
「トラヴィスに命を救われた。」
「彼の音楽に人生を変えられたんだ。」
フッドの代表として地域の若者たちを「アストロワールド」に集め、そのステージに観客を上げ、直接声をかける姿は若者たちに「自分は一人じゃない」という希望を与えている。
なぜトラヴィスはこのようにライブを「大事にする」のか?
インタビューで自閉症を患う実の兄について語った際、その答えを明かした。
「彼は歩けるし、シャワーだって一人で浴びられる。けど、思っていることを言葉で他人に伝えることはできないんだ。
時々、兄貴はかんしゃくを起こすんだよ。真夜中に大声で騒ぎ出して、寝てる俺に飛びかかってくることもある。俺はなんとかなだめようとするんだけど、わかってもらえなくてさ。でも、兄貴だからな。
大好きなアーティストのライブでステージに上げてもらったら、兄貴は死ぬほど喜ぶと思う。だから俺はファンに同じことをするんだ。俺はいつもMarcusのことを考えてるんだよ。」 – Rolling Stones
社会の中で生きづらさを抱えていたり、悩みを抱えた若者たちにとってステージに上げることがどれほど嬉しいことか。彼は兄の気持ちを考えながらパフォーマンスしている。
またインタビューでは「引きこもりの黒人」が非常に多い現状を、アストロワールドという居場所を作ることで、少しでも変化させたいという思いも語られていた。まさに地元・ヒューストンへの貢献そのものである。
彼は自身を「ラッパーではない」と明言している。おそらくこれは彼の楽曲・スタイルが従来のいわゆる「ラッパー像」とは異なっていることを意味した発言だろう。
しかし、自分と同じような若者たちに居場所を与え、ステージに上げることで希望を与え続ける彼の姿は、生まれ育った地域に「貢献・還元」することをカルチャーとして重要視してきた、まさにヒップホップそのものである。
以後、「アストロワールド・フェスティバル」を毎年行うと宣言しているのは、彼自身がこのことを強く意識しているからだろう。
アルバムをリリース後、ヒューストン市長は『ASTROWORLD』の反響を受け、テーマパーク・アストロワールドの再建を計画すると発言。
グラミー賞最優秀ラップアルバムにノミネート、受賞も期待されたが、カーディ・B『Invasion of Privacy』に及ばなかった。しかし市長は落ち込むトラヴィスにこう語りかける。
「みんなに言うんだ。例え望みが叶わなくてもあきらめるな。と。
観客の中には努力したのに失敗した人がたくさんいる。
そこで君が言うんだ。「またやってやる」と。
君が言うべきだ。君の声ならきっと届く。」
音楽で成功するという目標を追い続け、NY・LAで成功を掴んだヒューストンの青年は、成功、努力、そして失敗をも共有し、フッドの若者たちを励まし続けている。市長のかけた声のように、彼はこれからも「熱狂」を生みだしながら、若者たちに「希望」を与え続けてくれるだろう。
カイリー・ジェンナーとの離婚、ナイキ・エア・ジョーダン・ブランドとのコラボも話題になっているが、新しいプロジェクトに向け、彼は動き始めている。
次回作ではどんなサウンド、そしてどんな「熱狂」を私たちに見せてくれるだろうか。楽しみでならない。
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