「花と雨」オフィシャル・サイト / 『花と雨』アルバムジャケット
FEBRUARY 17 2020
Written by 市川 タツキ
Edited by SUBLYRICS
2000年代の国内ヒップホップシーンを代表するラッパーSEEDAの傑作アルバム『花と雨』。これに着想を得て映像化した同名の映画『花と雨』が現在公開されている。
ヒップホップ / ラップを題材にした映画なら、埼玉の田舎町でラッパーを志す若者たちの夢と挫折を描く入江悠監督の『SR サイタマノラッパー』、山梨県甲府市にて、低所得者の生活、地方都市のリアルをラップしている若者をラッパーの田我流が演じた富田克也監督『サウダージ』、ヒップホップレーベルSummitのOMSBやBIMなどのラッパーやトラックメイカーを一つの部屋に集め、一つの曲が完成するまでの過程を収めた記録映画である三宅唱監督『COCKPIT』など、国内にも様々なバラエティに富んだ作品が若手の映画作家によって生み出されている。
そんな中、映画『花と雨』がこれらの国内ヒップホップ映画と明確に異なるのは、アルバムに収録されている同名の曲『花と雨』が出来上がるまでのSEEDA自身の「半自伝的なリアルストーリー」である点だ。
企画、原案をSEEDA自身が立ち上げたこともあり、アルバム内のリリックによって語られていたエピソードがより生々しく、具体的な形で映像化されている。この形式はどちらかというと海外のヒップホップ映画や音楽映画に多く見られ、例えば、ドクター・ドレ―とアイスキューブが自ら製作に携わった『ストレイトアウタコンプトン』は似た形の作品だと言える。
さらに今作はアルバム『花と雨』の映像化というテーマで描かれた作品であるため、アルバム内の「歌詞 – リリック」で綴られているエピソードを中心に語られていく。
一つのアルバムに沿って、一人のアーティストのリアルストーリーを描くというその語り口の作品は、ほぼ今まで国内の作品にはなかったといってもいい。今までの楽曲原作の映画とも、自伝的な音楽映画、ヒップホップ映画とも違うオリジナルな角度から描かれた今作から、改めてSEEDAがあのアルバムで綴ったことをより鮮明に感じ取ることができる。
“ 1980 練馬に生まれ ひばりが丘団地記憶の先へ
物覚えついたときにはWembly London言葉はもどかさっぱりで – Live and Learn “
この歌詞から始まる、アルバム12曲目に収録されている曲” Live and Learn “で描かれる情景は、彼が幼少期ロンドンに住んでいた時の記憶だ。今回の映画『花と雨』は、まさに” Live and Learn “で綴られていたこの場面から始まる。
主人公である幼少期の吉田はロンドンの少年たちとfootballで遊ぶ。そして、一緒に遊んでいるロンドンの子供たちから日本人であるということに対しての差別を受ける。映画では、そのロンドンのコミュニティでの疎外感の記憶を抱えたまま日本へ帰国。さらに日本でも「ここは俺の居場所じゃない」という居場所への葛藤が描かれる。
「周りの奴らと違う」という理由で差別を受けた吉田は日本に帰っても、海外で幼少期を過ごしたそのバックグラウンドにより「アメリカかぶれ」と言われ馬鹿にされたわけだ。
そんな中、学校の外でヒップホップに出会った彼は音楽に目覚めていくが、自分のいる場所以外のところにリアルを見出している吉田の音楽は周りの人々に届くものではなかった。
映画の前半において描かれる、彼の「居場所のなさ、リアルの追求」は、貧困地域に住む黒人によるラップで語られているようなギャングスタなハスリングなどをリアルとするヒップホップ音楽の中で、日本人として自分たちは日本で何を語っていくかという、ある種「日本においてのヒップホップのアイデンティティ」の話にもつながる。練馬で生まれた日本人でありながら、ロンドンで海外のフッドの現実や格差の現実を生で見て育ち、日本に帰ってきた吉田には、海外のそういった情景にこそリアルがあると感じたのだろう。
この葛藤に対する答えはアルバムの3曲目に収録されている” Ill Wheels “のSEEDAのヴァースに綴られている。
“ 人生どう転んだって吐くさ リリックの中2度生きるラッパー
言葉の壁は高いがフローは その上を超すことは可能さ
風のフロー使い詩を街に落とす ひび割れたアスファルト芽を出す詩を
Nasのよう いやJayのよう いや俺は俺にしかなれねーから – Ill Wheels “
海外のヒップホップの壁の高さ、日本とは異なる独自のリアルさを感じながら、自分の中でそれに対抗する「自分なりのヒップホップの確立」を英語歌詞の多いSEEDAがあえて歌詞のほとんどを日本語でリリカルに綴っている。
映画の主人公吉田は、自分の中でのリアルを獲得するためにハスリングに手を染めていく。因みにこのエピソードは『花と雨』のアルバムに収録されている” Sai Bai Man “” Just Another Day ”の歌詞やSEEDAが2003年に加入したヒップホップグループSCARSが産んだような日本では珍しいハスリングラップの作品に影響を与えていると思われる。
幼少期にロンドンで馬鹿にされた時も、日本で馬鹿にされた時も、自分の言葉で対抗できず、もどかしい思いを抱え、日本人相手に伝えることを拒んできた吉田も、やがて自分の半径で起きている出来事や日常風景、日本でラップをすることの葛藤も含めた全てを言葉に落とし込んでいく。ハスリングでしかリアルを感じることができなかった彼が変化していく過程で重要になってくるのは、彼を取り巻く「周りの人々」だ。
映画の中では吉田と周りの人々との関係も描かれる。
その中でも最も印象的なのはやはり若くしてこの世を去った姉とのシークエンスの数々だろう。
アルバムと同タイトルの楽曲” 花と雨 “で、比較的メロウなビートの上で綴られた姉との記憶と、この曲に込めた姉への想いに、より一層フォーカスした演出が全編に渡って表現されているこの映画には、吉田という青年の頭に積み重ねられた情景と記憶が『花と雨』というアルバムに言葉として落とし込まれていく過程が描かれている。幼少期から自分の支えになり、音楽活動も陰ながら応援してくれた姉と、彼女が亡くなる前にろくに対話できなかった自分自身への憤りが” 花と雨 “の歌詞の中でも綴られる。
“ いつまで経っても テメー事ばっか
分かろうとせず 欠けた思いやりが
バタンと閉めた ドアの向こう側
かけなかった やさしさの言葉 “
映画の中では、部屋の中の仕切られたクローゼットの中で録音・制作を行う吉田が、部屋のドアを開けて入ってくる姉と一つの狭い部屋の中ですれ違ってしまう場面がいくつかある。
自分のことに精いっぱいで、唯一の理解者である姉とまともに向き合い、言葉をかけることができなかった後悔が、この作品を見た後にアルバム『花と雨』を聴くとより切実に伝わってくる。
姉との関係性に最もフォーカスした映画版だが、そのほかの人々と主人公吉田の関係ももちろん描かれる。劇中で相田という名前で出てくるのは、SEEDAをフックアップした重要人物の一人、トラックメイカーのI-DeA。劇中、彼から投げかけられる「人に届くような、伝えるようなラップをしろ」のような言葉の数々は、彼が自身のリアルを言葉に落とし込んでいくうえでいかに重要であったかが映画を見ていると伝わってくる。
このように、彼がラップという言語を獲得していくまでに様々な人々との葛藤、衝突、そして理解があったことが、この映画では描かれている。
この『花と雨』のアルバムには、SEEDA自身の等身大の視点から見た生活、街の情景、日本でヒップホップ音楽をすることについての想いが、落とし込まれている。貧困地域におけるヒップホップのような現実がなくても自分の半径で起こっていること、見たものをラップすればそれはリアルになりえる。彼にとって、それは姉の死だったり、日本で音楽をやることの葛藤であった。
そして、それらを表現し形にする言葉を吉田という青年が獲得していくまでの物語が映画『花と雨』である。
この映画を見ると、SEEDAがあのアルバムに込めた様々な想いへの理解がより深まり、逆に映画を見てから、アルバムを聞くと、それぞれのシークエンスを通して吉田が何を考えたのか、どういうニュアンスのシーンだったのかがより明確になる。
パンフレットのインタビューで「説明しすぎる映画は苦手」、「できるだけ言葉ではなく映像で語ることを意識した」と語っている土屋貴史監督の今回の映画とSEEDAのアルバムは、アルバムの内容を映画がそのまま説明しただけではない、それぞれの空白をお互いに補完し合うような関係性といえるかもしれない。そういった意味でも、アルバムを聴きこんでいた人には間違いなく必見の映画といえるだろう。
(「花と雨」オフィシャルサイト)
『花と雨』
ヒップホップMC、SEEDAのアルバム「花と雨」を原案にした青春ストーリー。周囲になじめない若者が、ヒップホップによって困難な現実を乗り越えようとする。メガホンを取るのは、数々のテレビCMやミュージックビデオを手掛け、本作が長編映画初監督作の映像作家・土屋貴史。主演を『このまちで暮らせば』などの笠松将が務め、大西礼芳や岡本智礼らが共演している。SEEDAが音楽プロデュースを担当。
監督:土屋貴史
キャスト:笠松将、大西礼芳、岡本智礼、中村織央 (シネマトゥデイ)
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